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梦幻如真-天下第三逆贼传-第4章

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『両大師伝記』では、天海は足利義澄(11代将軍)の子とされている。武田信玄の生まれ変わりという説もある。天海はかつて信玄の保護のもと論席を開いている。おそらくこれは天海の家康への献策、具申が信玄の政策と似ているところからのものではないかと思う。
天海は、関ヶ原の合戦の頃に突然家康の側に仕えるようになり相当の信頼を得ているが、これは高僧だからということなのだろうか。同様に家康周辺には何人かの僧がいたが、この中でも最も信頼されているようだ。しかも僧であるにもかかわらず、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を言ったりしている。当時、僧と言えども戦さの知識はあったものだが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて相当な戦さ上手の僧というのも不思議な気がする。
天海の姿は『関ヶ原合戦図屏風』で見ることが出来る。この中では最後方の家康の近くで鎧をつけている。「南光坊」と書かれているので間摺い胜ぁI扦ⅳ辘胜殒zをつけているのだ。
何とこの鎧、大阪城に現存している。大小の立派な角があるところなど、敵から身を守るための鎧というよりは、身分の高さや威厳を表わしているように思えるがどうだろうか。
関ヶ原後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠、家光にも仕えている。天海が家康に仕えただけでは光秀との接点は何もないが、実は意外なところから光秀との接点が出てくる。
春日局
3代将軍&;#12539;家光の育ての親は春日局であるが、通常春日局には誰でも会えるわけではない。後の将軍になる人の親の立場なわけだから当然だろう。だが、天海だけは例外である。それどころか、春日局の方がへりくだった態度をとっているように思えるふしがある。初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は平伏し「お久しゅうございます」と言ったというウワサがあるが、とすると初対面ではなかったことになる。春日局と天海はどういう関係だったのであろうか。
春日局は土岐氏に仕えた斉藤利三の娘である。つまり址慈&;#12539;光秀一族の側の人間なのである。址慈摔私と宋铯纹诮姢蛴皮搿¥饯欷饧夜猡文袱闲砰L側の血筋のお江の方である。お江の方にとっては、時と場所を変えて敵に出会ったようなものかもしれない。とても我が子を託す気になどなれなかったであろうと私は想像するが。
この不思議に輪をかけるような話しがある。が、これは後にあらためて述べる。
土岐氏出身の春日局と光秀。もし光秀が生きていたら、当然光秀の方が格上である。天海が光秀であれば平伏するのは当然のこと&;#12539;&;#12539;&;#12539;。
秩父神社
日光枺諏mの雛形として家康が造営を命じた秩父神社という神社がある。この神社の拝殿と本殿の幣殿枺鼈让妞摔现窆Gを持つ僧侶らしき人物の彫刻がある(写真)。飛騨の工人&;#12539;左甚五郎作と言われるもので、日光枺諏mの「眠猫」等も彼の作品と言われている。が、この人物も架空の人物という説が強い。妙見信仰関連の彫刻の中の一つの彫刻にすぎないのだが、よく見ると桔梗紋をつけている(写真では小さすぎて見えないが実際に見るとハッキリわかる)。
明智の桔梗である。秩父神社ではこの彫刻以外には徳川の葵紋があるが、この人物だけ桔梗なのである。桔梗の僧侶。秩父神社の造営時には天海の弟子が派遣されていることからも、「桔梗」から光秀を、「僧侶」から天海を連想させる。また秩父神社の南に慈眼寺、その近くに明智寺もあるが&;#12539;&;#12539;&;#12539;?
2代将軍&;#12539;秀忠、3代将軍&;#12539;家光の名付け親は天海だが、日光枺諏mにはこの時の文があり、斜めに折り畳むようになっているのだが、何と、折り畳むとそれぞれの一字が現れ「光秀」となるのだ。考えすぎかもしれないが、4代将軍&;#12539;家綱、5代将軍&;#12539;綱吉に共通される「綱」も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したという説もある。
枺諏m
風水学的に言って、江戸はかなり良い条件を備えた場所と言われるが、唯一のウィ荪ぅ螗趣堡畏浇扦胜韦坤饯Δ馈¥长长藦源à蚴丐毪猡韦蛑盲堡型觇丹趣胜耄üP者、風水の知識ゼロのため人に聞いたものそのまま)。こう進言したのも天海である。家康が死に、江戸の北にあたる日光に枺諏mを建てる際に指摚Г筏郡韦馓旌¥馈¥长螙|照宮にもまた多くの謎がある。
日光枺諏mは日光山輪王寺に隣接していて、家康の遺言を受けた天海らが中心となって、久能山(静岡県)に埋葬されていた家康の遺骸を改葬して祀った絢爛で豪壮な霊廟である。元和3年(1617年)に原型が出来上がり、家康21回忌法要を機会に大改修がなされ、寛永13年3月に完成した。天海は遺言に従い、山王一実神道に則って「枺沾髽噩F」という神号を朝廷から貰い受けて日光山に家康を祀るとともに、代々の将軍は「日光参詣」を行うことによって、徐々に神格化していったのだった。
日光枺諏mは江戸幕府最後の砦を目指して造営されたものであるとも言われ、天然要害の日光連山の地にもかかわらず構造物に石材を多用している他、装飾品には銅など、鋳造しやすい金属をふんだんに使用し、弾丸に転化できるようにしているという。
さて、枺諏mは枺沾髽噩Fこと家康を祀ってあり、当然ながら徳川家の葵の御紋がたくさん見られる。しかし、陽明門を守る木像の武士の紋はなぜか桔梗である(左写真/足の部分)。光秀の桔梗である。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼のひさしの裏には隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある(右上写真)。実際に見ると不気味なほどである。表向きには徳川だが、密かに桔梗紋が沢山入り込んでいるのだ。これは何を意味しているのだろうか。
枺諏mというと日光が有名だが、他にもある。群馬県の世良田にも枺諏mがある。世良田というと、徳川という名の発祥の地とも言える場所であるが、この世良田枺諏mもやはり天海が作っている。もともと長楽寺の一部だった場所で、天海も住職をしていたことがある。近年、徳川埋蔵金伝説で有名になっているようだ。
徳川家光
春日局の項で少し触れたが、なぜ織田家の血が流れるお江の子&;#12539;家光を光秀側の人間である春日局が育てるのであろうか。乳母は公募で、春日局の夫である稲葉正成が関ヶ原の合戦で小早川秀秋に仕え、家康勝利に大きく貢献した功績を認められてのものと説明されているようだが、それにしても天下を治める将軍を育てるという重職についたばかりか、この後春日局として絶大な力を持つことになるのである。大奥を址慈摔私筏と宋铯耸饲肖椁欷皮い屏激い韦坤恧Δ?椞锛窑螖长摔ⅳ郡肴宋铯颏长欷郅嗓蓼扦酥赜盲筏郡长趣坤堡扦饧铱丹砰Lと親しい関係ではなかったことがうかがえるのである。
さて、三代将軍&;#12539;家光にも謎がある。『枺沾髽噩F&;#12539;大猷院&;#12539;慈眼大師板剑唬ㄓ倚凑妫─趣い}は家康、家光、天海という変わった3ショットが描かれている。家康、秀忠、家光というならわかる。2代将軍がいない変わりになぜ天海なのだろうか。2人の偉大な将軍とともに描かれているというだけで不思議だ。
家光の「家」は言うまでもなく家康の「家」だ。では「光」はどこから来ているのだろうか。まさか光秀の「光」ではないだろう。万が一にも光秀の「光」であるとしたら&;#12539;&;#12539;&;#12539;?そう考えたくなる物証がある。
それは『松のさかへ枺諏m様御文』である。家光の親が秀忠、御腹が「春日局」になっているのだ。家光がお江ではなく、春日局(お福)の子ではないかという説は根強く存在する。そればかり
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